日本国有鉄道サハ78形電車は、昭和19年(1944年)から昭和24年(1949年)の間に官設鉄道(当時は運輸通信省→運輸省鉄道総局)が改造や新製によって製造した車体長20メートル級の4扉ロングシートの付随車です。電動車のモハ63形と合わせて、モハ63系と呼ばれることもあります。最初に製造された昭和19年当時は戦時用の大量輸送に適した車両を急造したという意味合いが強く、座席にモケットが無かったり、車内の化粧板が省略されたりといった戦時設計で製造された車両もあったようです。
まず昭和19年に最初の新製車8両が落成し、次いで昭和19年から昭和20年(1945年)にかけて横須賀線で使われていた二等車サロ45形6両や二・三等合造車サロハ66形15両を4扉化して全室ロングシート(といってもそもそも座席が一部しか設置されなかった車輌もありましたが)に戦時改造して本形式に編入され、総勢29両で終戦を迎えました。しかし、この中には戦災を受けた車両も含まれていて、昭和21年(1946年)に10両が戦災廃車されています。戦災廃車された車両の中にはマニ72形として復旧したり、東京急行電鉄に払い下げられたものもありました。したがって、総勢19両が戦争を生き延びたことになります。
戦後になると輸送需要が急増したため、昭和21年から大量生産され始めます。戦後に新製された車両は100番代以降の番号を附番され、昭和22年までに103両(78100~78202)が製造されて、昭和22年末時点で総勢122両となりました。このうちの3両(78200~78202)は車体をジュラルミン製の車体という試作的要素の強い設計で落成しています。
その後、2両の事故廃車がありましたが、昭和24年(1949年)に30両が増備されて総勢162両(うち150両が在籍)となりました。しかし、例外なく資材不足や簡易設計の影響を受けており、安全性にも問題が残された状態となっていました。
昭和26年(1951年)にモハ63形の構造的要因に起因して焼死者106名を出した桜木町事故を契機としてモハ63形と本形式に更新修繕が実施されるとともに、昭和26年(1951年)から昭和27年(1952年)にかけて、電装されていなかったモハ63形のうち運転台を撤去した20両が本形式に編入され総勢のべ181両となりました。このとき、モハ63形は運転台の有無によってモハ72形とモハ73形に形式変更されましたが、本形式はサハ78形のままとされています。また、更新修繕後は72系(73系と呼ばれることもある)電車として戦後の通勤輸送の主力第一世代の電車と位置づけられています。
昭和43年(1968年)には、10両に便所が取り付けられて400番代と450番代に形式内改番されたほか、昭和39年(1964年)から昭和45年(1970年)にかけてモハ72形18両が電装解除されて本形式に編入されています。このうち、昭和39年に改造された78500は、事故で大破したモハ72から改造された車両ですが、その際全金属製(鋼製)の車体に載せ替えられています。また、試作的な改造が施された車両として昭和29年(1954年)にジュラルミン製の車体だった3両(78200~78202)が大井工場で全金属車体に載せ替えられて、2両はクハ79形900番代に、1両が本形式の900番代(78900)に改番されています。
太平洋戦争下での輸送量力増強のために横須賀線の二等車の運用を取りやめて三等車化して通勤輸送に充当するため、横須賀線で使われていたサロ45形6両とサロハ66形15両を昭和19年(1944年)7月から昭和20年(1945年)3月にかけて4扉化改造して本形式に編入したグループです。
改造は、大井工機部(いわゆる大井工場)で行われ、車両両端にあった出入口の間に片側2か所ずつの1100ミリ乗降用扉を増設し、座席をすべてロングシートに取り換え、便所を撤去するというものでした。
戦時中の被災などにより、昭和19年新製車8両のうち3両、サロ45やサロハ66からの改造車21両のうち7両が昭和21年(1946年)に戦災廃車されています。
戦後の混乱期の昭和22年(1947年)には鳳電車区構内で機関車と衝突事故を起こして大破していた1両(78139)が廃車され、昭和23年(1948年)には日国工業で発生した火災で延焼した1両(78112)が全焼して廃車されるという事故廃車がありました。