工部省鉱山寮1号形蒸気機関車


概要

 工部省鉱山寮1号形蒸気機関車は、明治11年(1878年)にイギリスのSharp Stewart(シャープ・スチュワート)社で製造されて工部省鉱山寮が輸入したタンク式の蒸気機関車です。鉱山寮が釜石に開設を計画した官設製鉄所に燃料や鉱石を搬入するための鉄道を建設するために輸入されました。
 この製鉄所は明治13年(1880年)2月に25トンの高炉を2基持った小規模な製鉄所として開設され、日産の銑鉄生産量は6~8トン程度であったそうです(日本国有鉄道,1974)。この製鉄所に燃料や鉱石を輸送するための鉄道として、工部省鉱山寮によって釜石鉱山鉄道が敷設されたのですが、この鉄道は、釜石港-大橋採鉱所間の本線(延長約18キロメートル)と、途中から分岐して小川山の製炭所までの支線(延長約5キロメートル)の路線を持っていました。明治13年2月17日に完成したこの鉄道は、日本における3番目の鉄道として知られています(臼井,1959)。
 といっても、新橋-横浜間、京都-神戸間に敷設された鉄道が幅1067ミリメートルの軌間だったのとは違って、幅838ミリメートル(2フィート9インチ)という小さな鉄道でした。その建設や営業のために明治11年(1878年)に3両の機関車がイギリスから輸入されたのが本形式です。

 イギリスのSharp Stewart(シャープ・スチュワート)社で製造され、輸入された3両の機関車は、釜石鉱山鉄道1号から3号機関車とされたとみられています(沖田,2013)。B形サドルタンク機関車で、全長5925ミリメートル、運転整備重量19.05トン、動輪直径762ミリメートル、石炭積載量0.48トン、水タンク容量1.8キロリットル、という諸元でした(臼井,1959)。この当時は形式という概念が無かったようですので、ここでは便宜的に「工部省鉱山寮1号形蒸気機関車」としています。

 釜石鉱山鉄道では、1列車の輸送量54トン、平均速度8~16km/hで貨物輸送に使われましたが、その釜石製鉄所が明治15年(1882年)に操業停止となり、釜石鉱山も廃山となったことに伴って、官設釜石鉱山鉄道も運行を停止してしまいました。
 しばらく行くところが無かった3両の機関車でしたが、明治16年(1883年)に1両(1号機)が官設三池鉱山に引き渡され、残った2両(2号機と3号機)は、明治18年(1885年)までの間に日本で3番目に開業した私鉄とされる阪堺鉄道(のちの南海電気鉄道の一部)に譲渡され、阪堺鉄道芳野号形となりました。
 三池鉱山に移った1号機は昭和23年(1948年)まで、阪堺鉄道に移った2号機はその後何社かを渡り歩いて昭和26年(1951年)まで、3号機はさらに南海鉄道から博多湾鉄道汽船(のちの西日本鉄道の一部)に移って昭和13年(1938年)まで活躍しました。

車両一覧

 車号をクリックすると各車の車歴を確認できます。

  • 鉱山寮1号→廃車→官設三池鉱山
  • 鉱山寮2号→阪堺鉄道芳野号→南海鉄道15号→鞍手軽便鉄道2号→帝国炭業2号→九州鉱業2号→筑豊鉱業鉄道2号→筑豊鉱業鉄道1号→廃車
  • 鉱山寮3号→阪堺鉄道和歌号→南海鉄道14号→博多湾鉄道1号→博多湾鉄道汽船1号→博多湾鉄道汽船21号→廃車

参考文献
  • 臼井茂信(1959):第三の鉄道,鉄道ピクトリアル,No.100,1959年11月,鉄道図書刊行会,PP.15-21.
  • 沖田祐作(2013):機関車表.
  • 金田茂裕(1967):南海・高野の蒸気機関車(1),鉄道ピクトリアル,No.203,1967年11月,鉄道図書刊行会,PP.34-38.
  • 日本国有鉄道(1974):日本国有鉄道百年史,第1巻,交通協力会,PP.130-131.