北海道炭礦鉄道イ形蒸気機関車は、明治13年(1880年)~明治22年(1889年)の間にアメリカのH.K.Porter(H・K・ポーター)社で8両が製造され、北海道炭礦鉄道とその前身である官営幌内鉄道が輸入したテンダ式の蒸気機関車です。
官営幌内鉄道時代には6両が輸入されており、特に形式を定めることもなく「義経号」「弁慶号」などの和名の名称が付けられていましたが、官営幌内鉄道が明治22年12月11日に鉄道事業を北海道炭礦鉄道に払い下げたことに伴って北海道炭礦鉄道に引き継がれたのちは「イ形」(イロハの「イ」)とされて、イ形1号機~6号機関車となっていました。実際に「イ形」という形式が与えられた時期は明治22年ではなくもっと後年のようではあります。
明治22年中に2両が増備されて(この増備は官営幌内鉄道時代に実施されていた可能性があります)、イ形9号機、10号機となり、総勢8両となりました。
明治22年に北海道炭礦鉄道が発足した時点では北海道炭礦鉄道の7号機、8号機は「ロ形」(のちの鉄道院7170形蒸気機関車)の2両が存在していましたが、本形式の9号機、10号機の増備後(正確な時期は不明です)に番号を整理する形で番号の振替が行われ、イ形9号機が7号機(2代目)に、10号機が8号機(2代目)となり、イ形は1号機~8号機までの8両とすっきりした形となりました。なお、ロ形の方は旧7号機が9号機(2代目)、旧8号機が10号機(2代目)に改番されています。
軸配置は1C型。すなわち、最初に従輪が1つあり、その後に3つの動輪を有する形態です。従輪の大きさは直径610ミリメートル、動輪の大きさは直径914ミリメートルで、それまでに輸入された蒸気機関車の中で最も動輪サイズが小さかった官設鉄道14号機関車(2代目)(のちの鉄道院7010形蒸気機関車)や官設鉄道26号機関車(2代目)(のちの鉄道院7030形蒸気機関車)よりもさらに動輪直径が小さく、より貨物用に適した設計でした。炭水車の車輪径も610ミリメートルで、その他の主要な諸元は機関車重量26.1トン(機関車15.8トン+炭水車10.3トン)、石炭積載量は1.57トン、水タンク容量は3.64キロリットルとなっていました。
前面にはアメリカ製の蒸気機関車に時折見られる「カウキャッチャー」と言われる排障器が付けられていて、レトロチックな印象を与える機関車となっています。
明治32年(1899年)に7号機が北海道庁鉄道部(北海道官設鉄道)に譲渡されました。譲渡後は(臼井,1956)は7号機のままだったとしていますが、明治32年当時北海道官設鉄道7号機は別の機関車がすでに存在しており(D1形7号機、のちの鉄道院3010形3011号機、(臼井,1956)にもこの車両の記載がある)誤りと思われます。一方、(沖田,2013)は北海道官設鉄道11号機となったとしています。北海道官設鉄道には1号機~10号機まで空番無く10両が揃っていましたし、その後12号機以降の輸入が確認されており11号機を輸入した形跡がありませんので、(沖田,2013)の記述の方が信頼性が高いと本サイトでは推測しました。
残った7両は北海道炭礦鉄道が国有化される明治39年(1906年)まで北海道炭礦鉄道で揃って活躍しており、国有化後の明治42年(1909年)に鉄道院7100形蒸気機関車とされました。先に北海道庁鉄道部に移った1両も明治38年(1905年)に鉄道作業局籍となっていため、こちらも鉄道院7100形蒸気機関車となって再び8両が同一形式に揃うことになりました。
(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P66より)
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