官設鉄道D10形蒸気機関車は、明治30年(1897年)にアメリカのSchenectady(スケネクタディ)社で10両が製造され、官設鉄道が輸入したテンダ式蒸気機関車です。輸入後はまずAO形蒸気機関車とされ、242号~251号機関車となりました。輸入当初は輸送量が増大しつつあった東海道線中部に集中配置され(臼井,1956)、専ら旅客列車牽引に用いられました。
その後、官設鉄道は、明治30年8月18日に逓信省鉄道作業局に改編されます。鉄道作業局は、それまでメーカーと軸配置ごとに分類されていた車両形式を、軸配置と、タンク式、テンダ式などの形態、それと性能によって車両形式を分類し直す改番を明治31年(1898年)に実施します。その際にAO形蒸気機関車がD10形蒸気機関車とされました。形式が変わっても車番は変わらず、242号~251号機関車のままでした。
なお、官設鉄道以外にも同形の機関車を九州鉄道が36両(55形12両、116形24両)、北海道炭礦鉄道が13両(ヌ形8両、ヨ形5両)輸入しています。
軸配置は明治時代の旅客用テンダ式機関車としては一般的な「2B形」。すなわち、一番前に2軸ボギー式の先輪が置かれ、次いで2軸の動輪が配置された形態です。それまで主に輸入されていたイギリス製のテンダ式機関車が流麗な車体を持っていたのと異なり、ボイラ前面の円周上にボルトがむき出しで配置され、ボイラ前面中央に丸い車号表示板を有するアメリカ製のテンダ式機関車に共通する特徴を有していました。主要諸元は動輪直径は1372ミリメートル、シリンダ使用圧力11.2kg/cm2、石炭積載量3.05トン、水タンク容量9.6キロリットルです。
明治37年(1904年)から始まった日露戦争に10両全車が徴用されて一時満州に渡り旧日本陸軍野戦鉄道提理部によって使われましたが、その際242号機が戦傷を受けて破損し現地で特別廃車されています。したがって、日露戦争終戦後に内地に帰還した本形式は243号~251号機の9両となりました。
逓信省鉄道作業局は、明治41年(1908年)に内閣鉄道院(いわゆる鉄道院)に改編されます。鉄道院は明治39年(1906年)から進んでいた主要私鉄の国有化に伴って各社の雑多な形式を引き継いでいた機関車の形式を整理するために明治42年(1909年)に車両称号規程を定めます。このころには、明治40年(1907年)に国有化された九州鉄道にいた36両と、明治39年(1906年)に国有化された北海道炭礦鉄道の13両も官設鉄道籍となっており、D10形の9両を含めたそれら全58両が鉄道院5700形蒸気機関車に改番されました。改番後はD10形だった9両は5700号~5708号機関車とされています。
北海道炭礦鉄道の同形車。(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P.56より)
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