九州鉄道55形蒸気機関車及び九州鉄道116形蒸気機関車は、明治30年(1897年)から明治32年(1899年)にアメリカのSchenectady(スケネクタディ)社で36両が製造され、九州鉄道が輸入したテンダ式蒸気機関車です。なお、九州鉄道以外にも同形の機関車を官設鉄道が10両(AO形→D10形)、北海道炭礦鉄道が13両(ヌ形8両、ヨ形5両)輸入しています。
輸入は明治30年と、明治31年(1898年)、明治32年の3ロットに分けて実施されています。九州鉄道の車両形式は基本的に同形の車両で最も若い番号の車号を取って形式としていたため、明治30年輸入の第1ロットの機関車は九州鉄道55形とされ55号機~66号機となりましたが、明治31年輸入の第2ロットはなぜか55形とはならず、別形式の九州鉄道116形とされ116号機~127号機となりました。明治32年輸入の第3ロットは116形とされて142号機~153号機となっています。もしかしたら55形と116形では細部の仕様が異なっていたのかもしれません。
軸配置は明治時代の旅客用テンダ式機関車としては一般的な「2B形」。すなわち、一番前に2軸ボギー式の先輪が置かれ、次いで2軸の動輪が配置された形態です。それまで主に輸入されていたイギリス製のテンダ式機関車が流麗な車体を持っていたのと異なり、ボイラ前面の円周上にボルトがむき出しで配置され、ボイラ前面中央に丸い車号表示板を有するアメリカ製のテンダ式機関車に共通する特徴を有していました。主要諸元は動輪直径は1372ミリメートル、シリンダ使用圧力11.2kg/cm2、石炭積載量3.05トン、水タンク容量9.6キロリットルです。
明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると九州鉄道からも蒸気機関車の徴用が行われ、116号機~127号機のすべてと142号機~145号機の合計16両が陸軍野戦鉄道提理部に借り上げられる形で満州に渡りました。終戦後、幸い戦災に遭うことなく全車が九州鉄道に帰還しています。
その後、明治40年(1907年)に九州鉄道は国有化されることになります。それに伴って55形と116形の全車が官設鉄道籍となり、明治42年(1909年)の鉄道院による形式整理のための改番の際に鉄道院5700形蒸気機関車とされ、55形12両が5709号~5720号機、116形24両が5721号~5744号機となりました。
北海道炭礦鉄道の同形車。(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P.56より)
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