官設鉄道54号形蒸気機関車は、明治14年(1881年)にイギリスのKitson(キットソン)社で製造されて官設鉄道(当時は工部省鉄道局)が輸入したタンク式の蒸気機関車です。官設鉄道西部地区の路線は、明治13年(1880年)に琵琶湖畔の大津駅まで延伸開業しましたが、京都-大津間は現在の東海道本線の位置とは大きく異なり、奈良線の稲荷駅付近から名神高速道路沿いに琵琶湖に向けて北上し、馬場駅でスイッチバックして大津駅に至る経路をたどっていました。特に大谷駅付近(現在の京阪電気鉄道京津線大谷駅付近と同じ場所)には急勾配があったことや、西部地区ではさらに長浜から関ケ原方面への路線延長工事が計画されており、これらの区間には急勾配の区間が多くなることが想定されていたことから、急勾配用の機関車として輸入されたのが54号形機関車でした。この当時は「車両形式」という概念が無かったようですので、ここでは便宜的に「54号形蒸気機関車」としています。
54号形蒸気機関車は合計8両が輸入され、全車が西部地区に配置されて官設鉄道の54号から68号機関車(偶数番号のみ)となりました。当時の機関車で同形が8両というのは、13号形蒸気機関車(2代目。のちの鉄道院160形蒸気機関車)の6両を上回る両数で、最大のグループを形成することになりました。のちの鉄道院1800形蒸気機関車にあたります。
軸配置は「C形」。すなわち、動輪の前後に先輪や従輪が無く、3つの動輪のみが配置された形態です。動輪の大きさは直径1245ミリメートルで、それまでの26号形蒸気機関車(のちの鉄道院7030形蒸気機関車)などの貨物用C形機の1092ミリメートよりも大きく、ある程度旅客用の用途も考慮されていたようです。石炭積載量は1.53トン、水タンク容量は両側の合計4.5キロリットルで、これもそれまでのタンク機関車よりもかなり大きい容量でした。
54号形蒸気機関車8両はいずれも西部地区の急勾配区間で使われたようです。明治27年(1894年)に官設鉄道の機関車を形式で区分するようになった際にY形という形式を与えられ、車番が39号から42号(連番)と44号から50号(偶数番号のみ)に変更されました。