官設鉄道34号形機関車は、明治8年(1875年)ごろにイギリスのSharp Stewart(シャープ・スチュワート)社で製造されて官設鉄道(当時は工部省鉄道寮)が輸入したタンク式蒸気機関車です。合計4両が輸入されて、最初は官設鉄道の24号~27号機関車となり、西部地区で神戸と敦賀に2両ずつ配置されて、敦賀の2両は北陸線の建設に使われました。
それからあまり時を経ずに明治8年(1875年)に実施された東部地区も含めた官設鉄道全体での改番で、24号→34号機関車、25号→36号機関車、26号→38号機関車、27号→40号機関車に改番されました。この当時は車両形式という概念が無かったようですので、ここでは便宜的に「34号形蒸気機関車」としています。
軸配置は「1B形」で、当時それまでに輸入されたタンク式機関車と同じく先輪が1軸あって、2つの動輪が配置された形態でした。動輪の大きさは直径877ミリメートル、石炭積載量0.76トン、水タンク容量2.27キロリットルと、明治6年(1873年)に西部地区の鉄道建設用に輸入された13号形機関車(のちの鉄道院120形蒸気機関車)とほぼ同じサイズと性能でした。
しばらくの間は西部地区や中部地区(名古屋近辺)の新線建設用に使われたようですが、明治16年(1883年)ごろに、36号と40号の2両が関東地方に送られてそのまま日本鉄道に貸し出されます。これは、明治15年(1882年)に日本鉄道に貸し出す計画で輸入された27号形機関車が重量オーバーということが判明したため、そのまま官設鉄道で使われることになったことに伴う代替措置でした。
本機を含む4両はいずれも前述の通り西部地区や中部地区(名古屋近辺)の新線建設用に使われたようですが、日本鉄道に移った2両と官設鉄道に残った2両で運命が分かれることになります。官設鉄道に残った34号と38号の2両は明治27年(1894年)に官設鉄道の機関車を形式で区分するようになった際にG形という形式を与えられ、車番も31号と32号に変更されて、のちの鉄道院130形蒸気機関車となります。一方、日本鉄道に貸し出された36号と40号は、のちに正式に日本鉄道に譲渡されて日本鉄道の16号と17号機関車となります。その日本鉄道は明治39年(1906年)に国有化されたため、この2両も結局官設鉄道籍に戻ったわけですが、130形とはならずにのちの鉄道院140形蒸気機関車となりました。
(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P5より)