官設鉄道102号形蒸気機関車は、明治21年(1888年)にイギリスのNasmyth Wilson(ナスミスウィルソン)社で2両が製造されて、官設鉄道(当時は内閣鉄道局)が輸入したタンク式の蒸気機関車です。輸入当時のタンク式機関車としては最大のもので、明治後期に登場するいわゆるB6形タンク式機関車の形態を先取りしたような「1C1形」の軸配置を持った機関車でした。
明治21年時点でさかんに輸入されていた当時の標準機ともいえる「1B1形」の軸配置を持った82号形蒸気機関車や90号形蒸気機関車がシリンダ使用圧力9.8kg/cm2であったのに対して、本機は11.2kg/cm2であり、機関車重量も82号形機関車が31.8トン(軸重9.2トン)であったのに対して本機は46.2トン(軸重12.1トン)と、性能もサイズも拡張された機関車となっていました。
輸入後は102号と104号と附番されました。当時は車両形式という概念が無かったようですので、ここでは便宜的に「102号形蒸気機関車」としています。本来、番号が偶数番号ですので西部地区配置のはずですが、横浜配置説(臼井,1956)、山北配置説(沖田,2013)があり、どこに配置されたのかはっきりしません。翌明治22年(1889年)には東海道線が全通して東部地区・西部地区の別が無くなりますし、すでに明治21年時点で1号機~100号機までの100両全部と101号機から139号機までの奇数番号が埋まっていて、102号機と104号機は空き番号の中で最も若い番号であることから、本機が配備される頃には地区による番号付け規則は使われなくなっていたのかもしれません。
軸配置は先述したとおり「1C1形」。すなわち、まず先輪が1軸あって、3つの動輪が続き、最後に従輪が1軸ある形態です。動輪の大きさは直径1219ミリメートル、石炭積載量は1.12トン、水タンク容量は両側の合計4.53キロリットルでした。
本機は主に路線建設用に使われたらしく、東海道線の国府津-沼津間の建設工事に従事したのち、信越線の勾配区間に転じたようです(臼井,1956)。明治27年(1894年)に形式によって管理するようになった際にAB形とされ、鉄道作業局時代のB5形を経て鉄道院3080形蒸気機関車となりました。
(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P35より)