鉄道省オハ32000形客車は、昭和2年(1927年)から昭和4年(1929年)の間に512両が製造された全長17メートル級の鋼製客車です。現在の普通車にあたる三等客車で、鋼体化された車体を持つ客車として初めて量産された系列の主要形式です。全512両のうち304両はオハ44400形三等客車として落成し、昭和3年(1928年)の車両称号規程の改正に伴って本形式とされたもので、オハ32000~オハ32303がこれにあたります。オハ32304~オハ32511までの208両は昭和3年8月から昭和4年5月の間に本形式として落成しました。一部の車両は昭和3年車両称号規程が適用される前に落成していますが、先行して本形式として新製されています。
大正時代中期以降、鉄道の輸送量はどんどんと増えていました。その中で鉄道事故も増加しつつありましたが、何より問題だったのは、ひとたび鉄道事故が発生すると木造客車では木製の車体が衝突時の衝撃や隣接する車両の台枠(木造客車であっても台枠は鋼製でした)が木製の車体を裂いて薙ぎ払うように破壊し「粉砕」と表現されるほどの被害をもたらすことで、多くの死傷者が生じるという点でした。車体が鋼製であれば、この被害は少なくて済むと考えられ、当時の官設鉄道である鉄道省は旅客用車両(客車だけでなく電車も)を鋼製化することを決断します。鋼製化といっても全鋼製ではなく、車体の柱と外板を鋼製とした「半鋼製」の形態でしたが、それでも事故時の被害軽減という目的は達成することができたのです。客車においてその方針が採用されたのがオハ32000形(旧オハ44400形)を中心とした17メートル級鋼製客車のグループです。のちにオハ31系と呼ばれるようになるグループにあたります。
オハ32000形客車は、その中の基本形式である三等客車として大量生産されました。
まず、昭和2年3月に試作車としてオハ32000とオハ32001の2両が日本車両製造と川崎造船所で1両ずつ製造されました。そして、昭和2年8月から昭和4年3月の間に510両の量産車が続々と新製されました。
諸元は、鋼製車体である点を除きナハ22000形の最終グループとほぼ同じです。台枠は魚腹形の17メートル級車体で、車内は2扉クロスシートで窓配置は均等ではなく、ボックスシート2つ分に3つの窓が割り当てられていました。すなわち、片側16個の窓のうち車端部の洗面所部分に設けられた1つを除く15個の窓が3つごとのグループとなり、各グループの間の間隔がやや広い配置となっていました。屋根はモニター屋根です。この外観は、大正9年(1920年)から製造されていた木造客車のナハ22000形とそっくりで、これをそのまま鋼製化したもの(三橋ほか,2004)と考えて差し支えありません。台車はTR11です。本形式ではブレーキ装置は、オハ44400形として落成した304両はまだ空気式のものが開発されておらず真空式とされましたが、本形式として落成した208両は空気ブレーキとなっています。また、オハ32202以降の310両は自動連結器の緩衝装置が従来の引っ張りバネ式から丙種引張摩擦装置付きのものに変更されています。
昭和5年(1930年)にオハ32260とオハ32279の2両が事故により廃車となっています。残る510両は、昭和16年(1941年)の車両称号規程の改正の際にオハ31形客車とされ、オハ31 1~オハ31 510となりました。
(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P182より)
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