日本国有鉄道オハ31形客車は、昭和2年(1927年)から昭和4年(1929年)の間に510両が製造された全長17メートル級の鋼製客車です。現在の普通車にあたる三等客車で、鋼体化された車体を持つ客車として初めて量産された系列の主要形式です。昭和16年(1941年)に実施された車両称号規程の改正によってそれまではオハ32000形客車とされていた510両が本形式とされたものです。オハ32000形は512両が製造されましたが、うち2両が昭和5年(1930年)に事故廃車されていたため、昭和16年時点では510両の在籍となっていました。
他に昭和22年(1947年)から昭和23年(1948年)にかけてオロ31形から2両が座席を2等用の転換クロスシートから3等用のボックス式のシートに交換されて本形式に編入され、オハ31 511とオハ31 512となりました。これにより、最終的に本形式は総勢512両となりました。
大正時代中期以降、鉄道の輸送量はどんどんと増えていました。その中で鉄道事故も増加しつつありましたが、何より問題だったのは、ひとたび鉄道事故が発生すると木造客車では木製の車体が衝突時の衝撃や隣接する車両の台枠(木造客車であっても台枠は鋼製でした)が木製の車体を裂いて薙ぎ払うように破壊し「粉砕」と表現されるほどの被害をもたらすことで、多くの死傷者が生じるという点でした。車体が鋼製であれば、この被害は少なくて済むと考えられ、当時の官設鉄道である鉄道省は旅客用車両(客車だけでなく電車も)を鋼製化することを決断します。鋼製化といっても全鋼製ではなく、車体の柱と外板を鋼製とした「半鋼製」の形態でしたが、それでも事故時の被害軽減という目的は達成することができたのです。客車においてその方針が採用されたのがオハ31形(旧オハ32000形←旧オハ44400形)を中心とした17メートル級鋼製客車のグループです。
オハ31形客車は、その中の基本形式である三等客車として大量生産されました。
まず、昭和2年3月に試作車として2両(オハ31 1とオハ31 2)が日本車両製造と川崎造船所で1両ずつ製造されました。そして、昭和2年8月から昭和4年3月の間に510両の量産車が続々と新製されました。
諸元は、鋼製車体である点を除きナハ22000形の最終グループとほぼ同じです。台枠は魚腹形の17メートル級車体で、車内は2扉クロスシートで窓配置は均等ではなく、ボックスシート2つ分に3つの窓が割り当てられていました。すなわち、片側16個の窓のうち車端部の洗面所部分に設けられた1つを除く15個の窓が3つごとのグループとなり、各グループの間の間隔がやや広い配置となっていました。オロ31形から改造編入された2両は、窓割りと座席の配置が一致していません。屋根は全車モニター屋根、台車はTR11です。
本形式では初めのころに製造されたグループであるオハ31 1~オハ31 302までの302両はまだブレーキ装置が空気式のものが開発されておらず真空式とされましたが、その後に落成した208両は空気ブレーキとなっています。また、オハ31 203以降の308両は自動連結器の緩衝装置が従来の引っ張りバネ式から丙種引張摩擦装置付きのものに変更されています。
本形式は戦争による影響を大きく被った形式の一つです。44両が戦災廃車されたほか、昭和18年(1943年)に50両がセミクロスシート(といってもほぼロングシートですが)に改造されてオハ41形となりました。このオハ41形のうち戦災廃車を免れた46両が戦後に復旧され、元のオハ31形の車番に復番しています。そのほか、事故により昭和32年(1957年)までの間に6両が廃車されました。
昭和30年代に入ると背刷りが板張りの17メートル級客車は旅客サービスを行う上で明らかに陳腐化してきていました。スマートな電車や気動車が全国各地で活躍を始めるようになると事業用車に改造される車両が出始めました。67両が配給車オル31形に改造されたほか、工事車オヤ27形に2両、職用車オヤ30形に2両、救援車スエ30形に1両が改造されていきました。珍しいものでは、昭和36年(1961年)に行われた通称和田岬線専用車としてオールロングシートのオハ30形(2代目)に6両が改造されました。
他形式に改造されずに残った車両は昭和30年代後半に入ると廃車の勢いを増し、昭和41年(1966年)に形式消滅しました。
オハ31形客車(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P182より)
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