鉄道院ニデ950形電車は、中央本線の前身である甲武鉄道によって明治37年(1904年)に3両が製造された2軸電動車です。製造当初は片運転台式の二・三等合造車で、甲武鉄道時代は「ろは」を名乗っていました。明治39年(1906年)に甲武鉄道が国有化された後も官設鉄道(当時は鉄道作業局)に継承されてそのままの形態・番号で使われていましたが、明治42年(1909年)6月に二等特定運賃が廃止されたことに伴って二等室部分が手荷物室に改造され、「ハニ」となりました(形式が変更されたかどうかは不明です)。そして、明治43年(1910年)3月8日に旧甲武鉄道電車の改番が実施されて3両全車が鉄道院ニデ950形となりました(沢柳,2005)。
大正元年(1912年)にはデ963形から3両が半室荷物車に改造されて本形式に編入され、最終的に総勢6両となりました。しかし、デ963形から改造された3両は集電用のポールや電動機(モータ)を撤去して付随車(いわゆるクハニの状態)とされていました。
主要な装備は、台車がブリル21E、主電動機はゼネラル・エレクトリック社製の53-A形で出力45馬力≒33キロワット、集電装置はポールでした。屋根はモニター屋根。間接制御方式で、総括制御による連結運転が可能。2軸の軸距離は10フィート(約3メートル)で、全長33フィート(約10メートル)でしたから、かなりオーバーハングの大きい車両であったようです。三等室部分の車内はロングシートで、座席の背摺は公園の木製ベンチのように横方向に板を張り付けただけのものでした。室内の照明は裸電球でしたが、当時の室内設備としては一般的なものだったようです。
明治42年(1909年)以降、ボギー式の電車の配備が進んでくると二軸車は淘汰されることになり、大正3年(1914年)から大正4年(1915年)にかけて電動車も電装解除のうえ、客車として信濃鉄道に4両、三河鉄道に2両が譲渡されて形式消滅となりました。なお、電装解除された電装品は、ホデ6110形電車の一部車両の新製時に再利用されました。
同系列のデ963形(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P228より)