京浜電気鉄道5号(初代)電車は、京浜急行電鉄の前身にあたる大師電気鉄道が川崎-大師間を明治32年(1899年)1月21日に開業する際に三吉商会から借り入れた電車です。明治23年(1890年)4月に上野公園で開かれた第3回内国勧業博覧会で「電車」を紹介するために持ち込まれた2両のうちの1両で、日本初の電車とされている車両です。大師電気鉄道は開業にあたって4両の電動車を用意しようとしましたが間に合ったのは1号形(初代)電車の2両にとどまったため、急遽借入られたもの(吉川ほか,1970)とされています。
しかし、(吉川ほか,1970)が7号(初代)→12号→21号と改番されているとしている点には疑義が残ります。開業に際して急いで借り入れたのであれば3号か5号(電動車の導入は4両が計画されていたため、その続番なら5号、実際に開業時に導入された2両の続番なら3号)となるのが順当ですし、12号への改番も明治33年当時は1号~12号が導入済であり13号となるのが順当です。一方、7号が正しいのだとすると、明治33年(1900年)に増備された京浜電気鉄道1号形(2代目)電車の続番となるわけですから「開業に備えて」という点に矛盾が生じます。また、7号(2代目)もこの後すぐに改造によって生まれていますので、12号への改番時期に矛盾が生じます。最終的に京浜電気鉄道の電動車は21両だった(寺島,1967)とされていますから、21号に改番されたのは順当と思われます。もっとも、(吉川ほか,1970)では「改番されたものと思う.」と、推論の形での記述ですので吉川らも断定して論じているわけではありません。
このことから、当サイトでは埋まっていた番号から合理的に勘案して、5号→13号→21号と改番されたものと推測しました。
主要諸元としては、2軸単車で使用電圧は直流500ボルト。台車はブリル21C、電動機はスプレーグ社の15馬力(約11キロワット)を1基だけ搭載していました(寺島,1967)。軌間は1435ミリメートルですが、全幅が2000ミリメートルと、他の車両より約23センチメートルほど小さい車体の車両でした。
明治37年(1904年)に廃車となり、返却されたものとみられます。
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