鉄道省キハニ5000形ガソリン動車は、昭和4年(1929年)に国内の汽車製造会社、日本車両製造、新潟鉄工所の3社で製造された鉄道省初のガソリン動車です。キハニ5000~5011までの12両が製造されました。
重厚な客車然とした車体を持つ二軸単車で、出力48馬力の4サイクルガソリンエンジン1基を搭載し、前面中央の屋根上(多くの気動車で前照灯が設置されている箇所)にエンジン冷却用の大きなラジエーター装置が設置されていました。車体のほぼ中央に旅客乗降用の引き戸が1か所設置され、車体の端部は片側が乗務員室扉、もう片側に荷物積み下ろし用の扉が設置されていました。雨どいは無く、扉の上部にあたる屋根にアーチ状の水除け用のレールが設置されているのみでした。屋根は丸屋根になっており、通風器はガーランド形のものが4基設置されていました。
エンジン出力が小さいにもかかわらず自重は15.5トンありました。自重1トンに満たない軽自動車のエンジン出力が最大64馬力である点を考えると、いかに非力なガソリン動車だったかが想像できます。それでも最高速度は時速54kmだったそうです。客室内は板張りの背刷りのクロスシートでオハ31形客車のような車内となっていました。
車体塗装は新製当初はぶどう色でしたが、昭和10年(1935年)以降は二色塗装に変更されました(久保,1981)。
昭和5年(1930年)に就役すると東海道本線の大垣ー美濃赤坂間や東北本線の仙台-塩竃間、それに徳島-小松島間といった短距離の区間列車で運用されました。蒸気機関が当たり前の時代で初めての内燃機関搭載車ですから運用開始当初は運用に苦労したようですが、ノウハウが次第に蓄積されて順調に使用されていました。そんな中で昭和8年(1933年)にキハニ5008がおそらく事故により廃車されています。
本形式が鏑矢となってガソリン動車は昭和10年代に入るとキハ40000形、キハ41000形の量産が始まるなど、蒸気機関に代わる旅客用車両として急速に普及が進むかに思われましたが、次第に戦時下に入ってきて燃料の入手が困難となってくるとガソリン動車は休車されるようになり、本形式も例外ではなく客車や救援車に改造されて、急速に数を減らしていきました。昭和16年(1941年)に3両が救援車ヤ5010形に改造され、残る8両も昭和17年(1942年)に客車化されてハニ5000形となって形式消滅しました(久保,1981)。ヤ5010形は1両が戦災廃車されましたが、戦後にエ810形となり、このうちの1両であるエ811の廃車体が苗穂工場内で放置されていたいたところ(一応、昭和35年の廃車時に保存する計画があったそうです)を苗穂工場70周年を記念して復元され、昭和55年(1980年)から苗穂工場内に静態保存されています(松井,1981)。
キハニ5000形(国鉄80年記念写真集、車両の80年 P275より)
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