日本国有鉄道(国鉄)モハ90電車は、昭和32年(1957年)から昭和34年(1959年)の間に222両が製造された全長20メートル級4扉ロングシートの通勤用全鋼製電車です。それまで国鉄で使われていた電車とは全く異なる設計思想の下で量産された電車で、モハ90以降に登場した電車を「新性能電車」と呼ぶきっかけとなった車両です。
なにが新性能だったかというと、動台車におけるモーター(主電動機)の架設方法がそれまでの「吊掛駆動方式」とは異なる「中空軸平行カルダン駆動方式」であったということ、それまでの電車の電動車は1両の車両に駆動や制御に必要な機器をすべて搭載していたのに対し、モハ90では2両の電動車を1ユニット(MM’方式)として、駆動や制御に必要な機器を2両に分散して搭載したこと、従来の電車よりも加速減速性能を向上させていること、などが挙げられます。
しかし、利用する乗客らにとってより印象的だったのは、それらの性能面ではなく、むしろオレンジバーミリオンと言われる中央線快速電車に採用された明るい塗装にあったように思われます。オレンジと緑の湘南電車に次ぐ明るい色の電車で、それまで通勤電車といえば茶色が当たり前だった中にあって、新しい電車だというイメージを強く印象付ける車両となりました。
モーターが台車枠と車軸にまたがるように架設されていた吊掛式電車では加速時に「ブーン」という大きな動作音がしていましたが、車軸から切り離されてモーターが架設される中空軸平行カルダン駆動方式の本形式では、加速時の動作音が「ウィーン」という軽快な動作音に変わったのが特徴的でした。車内は全幅1.3メートルの両開き扉が採用された4扉ロングシートとなり、混雑時の乗降時間の短縮を図っていました。
本形式は、ひとくくりに「モハ90形」とされていますが、その中にも運転台付きのMc車(のちのクモハ101形)、運転台付きのMc’車(のちのクモハ100形)、運転台のないM車(のちのモハ101形)、運転台のないM’車(のちのモハ100形)の4種類に分かれていて、番台区分と奇数偶数の違いで分類されていました。具体的には、運転台付きのM車は90500番以上の奇数号車、運転台付きのM’車が90500番以上の偶数号車、運転台のないM車が90001番から90499番までの奇数号車、運転台のないM’車が90000番から90498番までの偶数号車となっていました。パンタグラフはM’車とMc’車に搭載され、冷房は搭載していませんでした。
本形式は、まず、昭和32年に試作車1編成10両が製造され、全電動車の10両編編成(McM’MMc’McM’MM’MMc’)で各種試験が実施されました。そして昭和33年(1958年)からつくりを簡略化する方向に少し設計を変更した量産車の製造が始まり、中央線快速に集中的に投入されたのでした。しかし、投入が進んでくると10両全電動車の編成では変電所の容量が不足してきて、頻繁に変電所の遮断器が動作する(わかりやすく言えばブレーカーが落ちるということです)ようになったことから、2両のサハ98形付随車を組み込んだ8M2Tの編成とされました。
昭和34年(1959年)に電車に関する車両称号規程の改正が実施されたことに伴って、Mc車56両がクモハ101形、Mc’車56両がクモハ100形、M車55両がモハ101形、M’車55両がモハ100形にそれぞれ改称されました。
試作車落成から間もない昭和32年10月25~28日にかけて、東海道線大船-茅ヶ崎間で、モハ90形のうちの2両を改造して長距離高速走行試験が実施されました。改造された車番は不明ですが、おそらくのちに中央線快速運用の付属編成となったモハ90503-モハ90500の2両編成が用いられたものと推測されます。この高速試験は、のちのモハ20形特急電車の設計のためのデータを得ることが目的であったことから、特急電車を想定して台車を空気バネ付のものに履き替え、歯車比を高速用に変更、パンタグラフも高速対応のものに変更するといった改造が施されました。高速試験に備えて事前に大井工場構内で停止試験を行い安全を確認したうえで、高速試験では、車体が空気抵抗の大きい切妻型の前面形状であったにもかかわらず、茅ヶ崎付近で時速135kmに達しました。
さらに、昭和32年11月14日には、モハ90形4両を用いて、浜松から米原まで、途中の名古屋駅で1時間ほど停車するのみとした無停車高速試験が実施され、浜松-名古屋間を最高速度128kmで所要71分(平均時速91.5km)で走破して、主電動機がやや高温になる課題が見られたものの、電車による長距離高速運転が可能であることを証明しました。
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